城崎へ

2014年6月21日

 パリから羽田について、その足でそのまま宮崎に行ってきました。
 今日、やっと自宅に帰ってきました。
そして、東北ツアーの稽古再開。今日は『走りながら眠れ』の稽古を短時間でしたが、みっちり集中してやりました。

http://www.seinendan.org/play/2014/04/3398

 さて、さらにブログの続き。
北京から帰った日(6月10日)は、成田から一度家に帰って、新宿の朝日カルチャーセンターで、内田樹先生と対談。内田先生に私のワークショップのさわりを観てもらってから対談に入るという無謀な企画でしたが、どうにか無事に終わりました。内田先生や関係の皆さんと食事。楽しかったけど、私としては、二日後にもう一度対談をしなければならないので、話したいことが話せないもどかしさもありました。
11日は、早朝、一週間ぶりにアゴラに行って残務処理。それから新幹線で京都へ。堀川高校で教員対象のワークショップ、さらに皆さんと飲み会。盛り上がりました。
12日、城崎温泉へ。いよいよこの日から、日本劇作家大会。

http://www.asahi.com/articles/DA3S11198727.html

 小さな街での大会なので、来場者が気がかりでしたが、なんと過去最高の登録者数になりました。
 私は、この日は戯曲セミナーと、中一日おいて再度の内田先生との対談。この二連戦のために、一ヶ月ほど予習をしてきたので、どうにか中身のあるものにできたかなと思っています。終了後、皆さんから「よかった」と言っていただけました。
 対談終了後は中貝豊岡市長(城崎温泉は豊岡市にあります)や、いわき総合高校にいらした石井路子先生も加わって飲み会。刺身その他、とてもおいしかったです。あとから坂手洋二劇作家協会会長や、辰巳琢郎さんも合流。中貝市長は、最近内田先生の著作にはまっているらしくご機嫌でした。

そういえば、今回の東北ツアーにもっていく『走りながら眠れ』の当日パンフレットにも、内田先生が登場するのでした。以下、2012年上演時の当日パンフレットから。

 都内某所、内田樹さんの講演会に伺った際、控え室から会場まで、だらだらと歩きながらの立ち話になりました。たしか、その時私たちは、政治家の言葉について話をしていて、私の卒論が中江兆民だと言うと、内田さんが、
「そうそう、兆民。坂本龍馬と兆民と幸徳秋水、それが日本のまっとうな左翼の流れです。それがだんだんと消えてしまう」とおっしゃった。
「明るいサヨク」
「そうそう、明るい、教条的でないんです」
「おっちょこちょいなところもありますよね。おっちょこちょいっていうか、大らか」
「そうそう、大らかだ。それは大事です」
大杉栄は、その大らかな左翼の系譜の最後の星だったように思います。その後の左翼陣営に魅力的な人がいなかったわけではないけれど、時代の変遷と共に、活動は、暴力や転向といった暗い影を帯びるようになっていきます。
『走りながら眠れ』の会話はすべてフィクションですが、ファーブル昆虫記の翻訳の逸話をはじめ、書かれているエピソードは、ほぼ史実に基づいています。
作品の冒頭、大杉栄が、パリ近郊でメーデーの演説をしたというエピソードが登場します。その会場は、パリ北郊のサン=ドニ市、おそらくいまフランススタジアムという巨大なサッカー場のあるあたりだと思われます。私はその65年後の1998年、このサン=ドニ市における『東京ノート』の小さなリーディングで、フランス演劇界へのデビューを飾ったのでした。
作品中、いくつか、当時愛読していた内田百閒さんの随筆から引用をした部分があります。あらためてお礼を申し上げたいと思います。
この作品は、大杉栄の帰国から、関東大震災の混乱の中で虐殺される直前の数ヶ月の生活を描いています。稽古を進めている最中に、東日本大震災が起こりました。何か台本に手を入れたりということはなかったけれど、やはり観る側の気持ちには、少し変化が起こるものでしょう。そのことに思いを馳せながら、丁寧に作品を仕上げたつもりです。

というわけで、まだこの連載、続く。