『さよならだけが人生か』追加公演決定、善光寺から善通寺へ

2018年1月08日

 あけましておめでとうございます。
 今年は、十数年ぶりに、何も仕事のない三が日を過ごしました。集中して子育てのまね事をさせてもらいました。
 子育てについての所感もいろいろ書かなければならないのですが、とりあえず、必ず聞かれる質問にだけ答えておきます。
「おむつも沐浴も一人でできます」

 年末年始、青年団のWEBサイトのサーバー移転を進めていて、ブログの更新ができませんでした。こちらもいろいろお知らせしなければならないことがあるのですが、まずは、昨年末にパリで創ったオペラの劇評が、ル・モンドはじめ各紙に出ました。あんまりよく分かりませんが、たぶん、褒めてあります。

http://www.lemonde.fr/scenes/article/2017/12/04/le-festival-d-automne-s-acheve-sur-une-jolie-note-de-no_5224169_1654999.html

https://www.forumopera.com/hosokawa-futari-shizuka-paris-cite-de-la-musique-archipels-lointains

https://www.ksta.de/kultur/neue-musik-die-antwort-kennt-nur-das-meer-29018442

そして、『さよならだけが人生か』伊丹公演の追加公演が決まりました。ありがとうございます。
1月28日(日) 18時の回です。他の回は売り止めが増えておりますので、ぜひ、こちらをご利用ください。

http://www.komaba-agora.com/play/5731

 来週末からは、いよいよ長野公演がスタートします。近隣の方も、二年ぶりの長野県内での上演になります。次は、いつになるか分かりません。ぜひ、お見逃しなく。
 翌週は、私たちの純ホームグラウンド・キラリ☆ふじみです。最近は、ももクロがらみでしか呼ばれませんが芝居もやってます。昨年の吉祥寺シアターでの上演を見逃した方、またもう一度観たいという方、首都圏での上演は富士見市一カ所になります。ぜひ、おいでください。
 伊丹のあとは、西条市、善通寺市と四国を回ります。こちらも近隣の方、お誘い合わせの上、ぜひ、足をお運びください。
 今回は、善光寺から善通寺へのツアーとなります。

 こまばアゴラ劇場では、二月に、福島の高校の演劇が続けて上演されます。
   
2月11,12日に、相馬農業高校飯館校演劇部、こちらはアトリエ春風舎になります。

http://www.komaba-agora.com/play/6703

2月22日から25日、いわき総合高校演劇コース

http://www.komaba-agora.com/play/5493
 
 
 さて、セクハラ問題の続報ですが、昨年末12月27日付で市原幹也氏から謝罪と経緯の説明の書簡をいただきました。それ以前に、謝罪をしたいとの連絡が人づてに入ったので、とりあえず書簡での連絡をお願いしていました。
 年が明けてから関係者、被害者との調査、調停作業に入るようです。また、関係する諸機関も、被害が他にないかどうか調査を始めているようです。
 被害者の中には、公表を望まない方、話したくない方、そもそもそのようなワークショップなどに参加したことを忘れたい方、いろいろな方がいらっしゃるかと思います。ここからは、たいへん繊細な対応が求められる時期に入ってきます。
 直接の被害者の方たちに比べれば、私たちの受けた名誉毀損は、傷としては遙かに小さなものですので、今後しばらくは、市原氏に関する直接の言及は控えておきたいと考えています。
 
 その上で、いまの時点で、私が今回の問題で学んだこと、感じたことを、今後のために書き留めておきたいと思います。
 
 多くの著作でも書いてきたように、対話を通じてコンテクストのずれを見つけ出し、それをすりあわせていくというのが、私のコミュニケーションの基本的なスタンスです。
 その視点から見ると、今回の問題で印象的だったのは、最も基本的な「セクハラ」という言葉に対するイメージが、まだ世間では、非常に甘いところで使われているのだなという点でした。
 それに気づかされたのは、「セクハラなんて甘い表現ではなく、性犯罪あるいは強制わいせつと呼ぶべき」といった主張が散見されたことからでした。
 ハラスメントの定義はとても広いですが、現在、日本では、セクハラ・パワハラといった場合、一般的に、職場などでの権力構造を背景に相手の望んでいない行為や嫌がらせ、性的な接触などを行う行為を指すかと思います。セクハラの場合は、性犯罪を伴うことが多々ありますが、これは、いうなれば別の系統の罪であって、性犯罪がセクハラより罪が重いということにはなりません。
 事態が複雑なのは、おそらく世間一般で「セクハラ」というと、卑猥な言葉を投げかけたとか、お尻を触ったといった「犯罪」にはなりにくい事柄までを指すので、軽いイメージで捉えられているのかと感じました。しかし、これらの軽度のセクハラが発展して、深刻なセクハラにつながるケースも多く、軽い事象だからといって見過ごしていいわけではありません。
「セクハラと呼ばずに性犯罪と呼べ」と書いた方は、善意でそれを書いたのでしょうが、本来は、そうではなく「セクハラは、性犯罪と同様に重い罪だという認識を広めよう」というのが本筋になるかと思います。

こんなことを延々と書いたのは、「市原氏には二度と演劇界には関わって欲しくないと個人的には思います」という私の発言への批判に対して、やはりコンテクストのずれがあるのではないかと感じたからです。私は、性犯罪の履歴のある人間が、(被害者の許しなど様々な条件はあるでしょうが)演劇界に復帰してもかまわないと思っています。SNS上では、「そういった性的な偏向のある人間をこそ、演劇界は許容すべきではないか」といった類の意見も散見されました。単なる性的趣向の偏向であるなら、その通りだと思います。しかしセクハラは、単なる性的趣向の偏りだけでは起こりません。問題にしているのは、「キャスティングを取引材料として性的な関係を強要した」という部分のみです。なぜ、それが許せないのか、演劇業界としてこの問題に対処すべきかは、前回のブログで詳しく書きました。

 もう一点、「セクハラ」という言葉自体はこれほど一般的に流通していても、それが発覚したときの対処については、まだまだ一般に共有されていない部分があるのだなと認識した点も多々ありました。特に感じたのは、加害者の関係者に対する攻撃です。
 セクハラが発覚すると、加害者の関係者は親しい人ほど、「なぜ気がつけなかったのか」という罪の意識にさいなまれます。周囲からは「知っていただろう」と責められます。しかし、こういったことが露見しにくいのが、まさにセクハラの特徴であって、知っていたというケースは極めて例外的です。
 直属の上司や組織の長など監督責任のある立場ならば別ですが、友人、知人の場合、そこを責めることはしてはいけないというのが、セクハラ問題の対処の基本だと私は習ってきました。実際に加害者ではなく、加害者と被害者の共通の知人で、事件発覚後にうつ病になってしまったケースなども見てきましたので、ぜひ、皆さん、この点はご理解をいただければと思います。
 また、先にも書きましたように、関係諸機関は、すでに調査に入っているところもあり、被害者の心情を考慮して発言を控えているところもあるかと思います。私の知る限り、市原氏の関係者の多くは、この問題を真摯に受け止め、誠実に行動を始めています。
 セクハラ問題には、すぐには発表できないこと、コメントできないことが多々出てきます。私が関与するべき事柄ではないかもしれませんが、この点についても、多くの方々に知識として共有していただければと願います。

 最後に、今回の問題から(消極的ですが)得た点があるとすれば、セカンドレイプという感覚を、うっすらとでも体験できたという点です。
 今回、私は、本当に稀なケースで被害者の立場になりました。まさか自分がセクハラの被害者サイドに立つとは思ってもいませんでした。被害自体は軽微なものですが、しかし、ことは私と劇団の名誉に関わることなので、何らかの声明は出しておいた方がいいだろうと考え最初のブログを書きました。私の社会的地位と、現状のSNSの特徴からして様々な反応が予期されましたので、できるだけ抑えた筆致で心情を書いたつもりです。
 大多数の反応は、はっきりとした態度を表明したことに対して、好意的だったと思います。
 それでも案の定、様々なご意見がありました。それらは、ある程度、想定の範囲内でしたが、想定内であっても、やはり、否定的な意見を目にしたときの感情は、実際に受けてみないと分からないところがあります。数千倍に希釈されているとはいえ、「あぁ、セカンドレイプっていうのは、この数千倍もいやな気持ちになるのだろうなぁ」という程度の実感は持てました。これは、今後もセクハラについての対応をしていく立場の私としては得がたい経験でした。
 私はここまで、市原氏に対して、何か乱暴な言葉を使ったことは一度もありません。被害者の側が、「二度と演劇界には関わって欲しくないと個人的には思います」と書いただけで非難されるという状況を看過すれば、本当の直接的な被害者はもっと発言がしにくくなるだろうと思います。
 この点で一点だけ、やはり演劇界の外側の方には、分かりにくいのだろうなと感じたのは、名誉を傷つけられたのは私だけではなく、劇団員や無隣館生だという点です。厳しい選抜と修練ののちに劇団員となったり、配役を得ているいまの劇団員たちにとって、ある一定期間、限られた範囲とはいえ、そのような口利きによって現在の地位を得たのではないかと疑われるようなことがあったとすれば、それを知った時点で、とても悔しい思いをしたことでしょう。故に私は、最初のブログで「私たちの見解」と書きました。
 「二度と演劇界には関わって欲しくないと個人的には思います」という、「個人的」とは、何らかの公的機関を代表するものではもちろんない一個人の心情だというつもりで、こう書きました。しかしそれは当然、未成年を含む劇団の代表として、あるいは大学教員としての一個人の心情です。この点を補足しておきたいと思います。