シュヴァリエ勲章受勲について

2011年6月30日

 青年団本隊は、いまナポリフェスティバルに参加するため、イタリアに滞在しています。ナポリでは、国立カポディモンテ美術館の大広間で『東京ノート』を、別室の巨大タペストリーの展示場で『ヤルタ会談』を上演いたします。

 さて、先般の、韓国における私の失言問題では、関係各位に多大なご迷惑をおかけいたしました。ここに、あらためてお詫び申し上げます。

 また、この度、フランス国文化省より、レジオンドヌール勲章シュヴァリエを受勲いたしました。
 これもひとえに、私たちの活動を応援してくださっている皆様のおかげだと感謝いたしております。

 6月27日にフランス大使館で行われた叙勲式における私の答礼スピーチを掲載し、皆様へのお礼の言葉としたいと思います。
 
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<答礼>
 
 この度は、栄えあるシヴァリエ勲章の受章、身に余る光栄でございます。
フィリップ・フォール大使閣下、ならびにフランス政府文化省に対して、改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

また、私を支えてくれた家族、劇団員、関係するすべての方々にお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

この度の受章は、私個人のフランスでの活動の他、劇団青年団、そしてこまばアゴラ劇場の日仏文化交流に関する実績に対する評価だと受け止めております。

 私の父は、敗戦後まもなく、駒場の街にベラミという喫茶店を開業しました。これはモーパッサンの小説の題名から名前をとったようです。この喫茶店は、当時、東大にいた若い共産党員たちのたまり場だったそうです。以前、セゾン文化財団の堤清二会長から、堤さんや、のちの共産党委員長の不破哲三(ふわてつぞう)さんが、コーヒー一杯で粘るので、すぐに潰れてしまったのだと伺ったことがあります。

私がフランスをはじめて訪れたのは、十六歳の時でした。
その時、父は、私への手紙に、一編の詩を同封してきました。高村光太郎さんの『雨にうたるるカテドラル』という詩です。この詩は、留学中の高村光太郎が、ノードルダム大聖堂の前に立って、西洋文明の巨大さの前にたたずむ自分の小ささ、しかしその小ささを受け入れて芸術家としての一歩を踏み出していこうという強い意思を表す詩でした。高村光太郎さんは、『歴程』の同人をしていた私の祖父とも親交の深かった詩人です。父も何度か、子どものころ、高村先生のアトリエに伺ったことがあると言っていました。
 私は、その後、1984年、21歳の時に、この詩をモチーフにした『暗愚小傳』という作品を書きました。この作品によって、私たちの劇団青年団は、劇団としての確かなスタートを切りました。

 いま、喫茶店ベラミがあった場所に、こまばアゴラ劇場が建っています。
父と母は、私が『暗愚小傳』を書いたのと同じ1984年に、駒場にアゴラ劇場を開業しました。父は七年前になくなりましたが、父の夢はいま、大きく花開こうとしています。
この十年で、多くのフランス人演出家が、この劇場に滞在し、作品を作っていきました。フレデリック・フィスバック、ロアン・グットマン、フランソワ・ミッシェル・プサンティ、ヤン・アレグレ、フランク・デュメ、パスカル・ランベール、アルノー・ムニエといった人々です。このうちの何人かは、アゴラ劇場で仕事をしたあとにフランスの国立演劇センターの芸術監督になっていきました。フランス演劇界では、アゴラで仕事をすると出世するという伝説が生まれました。
特に今年度からは、ジュヌビリエ国立演劇センターと共同で、両国の若手演出家を紹介する新しい活動を始めました。今後も、新しい才能が、アゴラ劇場から巣立っていくことを願っています。

 また、この週末のメールのやりとりで、今年の秋に、ジュヌビリエで、フランスで初めてのアンドロイド演劇を上演できることが決まりました。
 今年の上演は15分ほどの小さな作品ですが、来年には、日仏共同で本格的な作品を作り、フェスティバルドートンヌに参加することを目指しています。
私たちはこれからも、日仏の演劇人の交流を通じて、世界最先端の作品を生み出し続けていきたいと考えています。

 さて、今年、三月十一日に、日本は、未曾有の大災害に見舞われました。フランスの演劇人からも、多くの心配と、励ましの便りが届きました。
 私は今年の一月、パリ郊外のサルトルビルに滞在して、フランスの子どもたち向けに『銀河鉄道の夜』を制作しました。ご承知のように、『銀河鉄道の夜』の作者宮沢賢治は、岩手県の生んだ偉大な詩人です。高村光太郎とも親交の深かった作家です。
 この作品は、来月、沖縄、韓国、台湾での上演が予定されています。私はフランス語版の『銀河鉄道の夜』を、友人の死を受け止めながら成長していく少年の物語として構成しました。沖縄の子どもたちが、この作品を見ることで、今回の大震災で被害を受けた東北の子どもたちと寄り添う気持ちを持ってもらえればと願っています。

こうして私たち作家は、過去に紡がれた言葉を、様々な形で受け継いで、また次世代に送り出していくことを繰り返します。その繰り返される営みが、父や祖父の代と違って、いまは、遠いフランスにおいても行われるようになったことを、私は、何よりも誇りに思います。

最後に、高村光太郎の詩の一節を朗読して、お礼の言葉に代えたいと思います。

おう雨にうたるるカテドラル。
息をついて吹きつのるあめかぜの急調に
俄然とおろした一瞬の指揮棒、
天空のすべての楽器は混乱して
今そのまはりに旋回する乱舞曲。
おうかかる時黙り返つて聳え立つカテドラル、
嵐になやむ巴里の家家をぢつと見守るカテドラル、
今此処で、
あなたの角石に両手をあてて熱い頬を
あなたのはだにぴつたりと寄せかけてゐる者をぶしつけとお思ひ下さいますな、
酔へる者なるわたくしです。
あの日本人です。

 私は今後も、宮沢賢治の祈り、高村光太郎の畏れ、そして父の夢を背中に負って、一本でも多くのいい戯曲を書いていきたいと思います。一本でも多くの芝居を演出していきたいと思います。
 本日はどうも、ありがとうございました。

 

2011年6月27日  
平田オリザ