社会における芸術の役割について

2020年3月05日

今日の夜、TBS系列のNEWS23に出ることになりました。
 昼間にインタビュー収録と稽古場取材が終わって、まあ、どういう風に編集されるかはわからないのですが。
 他に大きなニュースがあれば、飛ぶ可能性もあります。

短く編集されると思いますのでインタビューで話した内容、ツイッターで書いてきたことをまとめておきます。
もともとTwitterを想定して書いた文章に加筆していますので、少し文章が細切れになることをお許しください。

本文は、主に、以下の野田さんの声明文に賛同を表明し、それを受けてのことです。

https://www.nodamap.com/site/news/424

 仕方のないことかと思いますが、一般の皆さんには劇場の芸術監督という立場がご理解いただきにくいかと思います。私たち(野田さんは東京芸術劇場の芸術監督)は、その立場上、断腸の思いで、公演中止や縮小を指示しなければなりません。私もそのようにしています。
 私たち芸術監督には、観客の安全を第一義に考えながら、若いアーティストたちの表現の場を守る責務があります。劇場から感染者が出れば、その責任を取るのも館長や芸術監督の仕事です。危険な公演があれば、私たちにはそれを止める責任があり、その権限が付託されています。

 また、演劇は通常、延期が非常に難しいジャンルです。私たちの劇団のフランス公演も「中止」となりました。一方で、今回の新型コロナウイルスの案件は、いつ収束するかがわからないので、多くの劇団はギリギリまで上演を目指して稽古を続けます。
 上演中止は、若い劇団にとっては、集団の活動が今後継続できなくなる(一般企業でいうところの倒産)ほどの打撃となります。それが分かっていても劇場側は劇団に上演中止を申し渡さなくてはなりません。

 そのような状況下で、野田さんがおっしゃっているのは、「現在、この困難な状況でも懸命に上演を目指している演劇人に対して、『身勝手な芸術家たち』という風評が出回ることを危惧します」という一言に尽きると思います。
 政府からの要請で、大規模な上演はすでにすべて中止となっています。私たちは、若い小さな劇団が、様々な工夫の上に何らかの形で「上演」を選んだ時に、それが魔女狩りのように一方的に批判にさらされる状態を一番に危惧しています。

では、上演が許される場合はどのような場合かを、具体的に考えていってみましょう。

1.規模の問題

 当初、小池百合子東京都知事は、2月21日の記者会見で500名以上の大規模な集会やイベントは自粛してほしいとおっしゃいました。これは非常にわかりやすかった。
 2月26日には安倍首相から二週間、「大規模なイベント」の中止要請が出されました。
 この「大規模」が何を指すのか不明瞭だったわけですが、私たちの業界の感覚では、やはり小池知事の発言にあった500人から1000人以上のイベント、公演などを指すと考えるのが妥当かと思います。しかし、これが一人歩きしてしまった感があります。
 もちろん事態は進行していますから、もう少し水準を下げて200人から300人が社会的な常識の範囲かとも思います。もちろん、「大規模」を100人と考える人もいれば、50人と考える人もいらっしゃることでしょう。ここはぜひ、専門家の知見を求めたいところです。以下は少し、甘めの例かとも思いますが。

https://www.targma.jp/j-ron/2020/03/03/post719/

https://38news.jp/economy/15456

 ただ、とりあえず、「とにかく、絶対に人が集まったらダメ」というのは非合理的であり、感情的な議論ではないでしょうか。そもそも政府も、そのような要請はしていません。

2.ジャンルや形式の問題

 野田さんや私の発言が、スポーツや音楽を下に見ているというご批判があるようです。
 大きな誤読には取り合う必要はないかもしれませんが、いずれ大学の授業などで使えるかもしれないので、論点は整理しておきましょう。

パフォーミングアーツ、あるいはもっと広くライブやスポーツ観戦全体、さらには他の娯楽をとってみても、当然、感染リスクの高いものと低いものがあります。それは、もちろん、ジャンルの貴賤とは関係ありません。

上の1項で、100名とか300名とかが基準になるのではないかと私見を書きましたが、たとえば麻雀のように四人でも非常に感染リスクの高い娯楽もあります。カラオケも同様かもしれません。
一方、いまはライブハウスが問題になっていますが、同じ音楽鑑賞でも、クラシックの室内楽で、席も一つずつ開けて、短い曲にプログラムを変更して15分ごとに換気をするといった工夫があれば、感染リスクは大幅に軽減するでしょう。
観客が密集したり飲食も提供されていたライブハウスと、これらのコンサートを十把一絡げに扱うのは乱暴な議論でしょう。

 繰り返しますが、政府も専門家会議も、外に出るなとは言っていません。散歩や美術鑑賞などは推奨されています。ですから私は、美術館や図書館は、入場制限などを設け、除菌、換気を繰り返しながら開館を継続するべきだと考えます。

3.それでも必要なのか(芸術の公共性)

以上の1,2をふまえて、舞台芸術については、「でも、いま、やらなくてもいいんじゃないの?」というご意見は当然あるでしょう。
ここからは芸術(スポーツも同様ですが)の公共性の問題になります。

著作権がご専門の福井健策弁護士は「感染症とイベント中止の法的対処~払い戻し、解除、入場制限~」というコラムの中で、最後に以下のようにお書きになっています。

 国が指針で述べた「イベントの必要性」は、含蓄のある言葉だ。実際、我々はこの事態でイベントや、より広く人々が集まるという営みの、社会にとっての意味を問われているのかもしれない。無論、十分に省略可能・延期可能な集まりもあろう。だが文化・教育に限らず多くのイベント・会合は、互いに組み合わさることで社会にとって決定的な安全保障を提供し、また人々に生きる力を与える存在だ。

https://www.kottolaw.com/column/200227.html

 演劇は興業の部分を含みますので、ここでも受け止め方に混乱があることは仕方ないのですが、私たちアーティストサイドは、芸術を教育や医療、あるいはスポーツ(身体を動かすこと)と同等の公共性があると信じています。もちろん、そうは思っていない方もいらっしゃることも理解しています。

 たとえば、いま全国で休校措置がとられていますが、様々な工夫で休校にしなかったり、学童保育を延長している自治体も多くあります。午前中から開いている学習塾もあります。そこには子どもたちが集まってきますが、それを、多くの人は「身勝手」とは呼びません。教育の高い公共性をみなが認めているからです。
 繰り返しになりますが、「教育と芸術を同等に扱うな」というご意見があることは重々承知しています。しかし、同等に扱うという見方もあるのだというレベルではご理解をいただきたいと思います。
教育の公共性も医療の公共性も普遍的に認められてきたわけではありません。日本での公教育の歴史は150年、国民皆保険制度が完成して60年程度です。公共性の認知は時代とともに、あるいは国によって変化します。

 週に二、三度の散歩が健康維持に必要なように、週に一度程度、芸術に触れることは、人生にとって、とても大事なことだと私は思います。もちろん、「散歩なんかしなくても俺は健康だ」という人がいるのと同様に、「芸術なんて必要ない。好きな奴だけやっていればいい」という人もいらっしゃるでしょう。

 こういった議論は、阪神淡路大震災から東日本大震災に至る過程で、アートマネジメントの世界でも多く議論されてきました。いや、こういった大災害が起こるたびに、「芸術の社会における役割、公共性」は議論を深めてきたと言ってもいいでしょう。
 大災害が起こった場合、初期の救助から、避難所設置、炊き出しなどの衣食住の確保がおわったあとに、心身のケアが必要とされていることは広く認識されてきました。そこでは、多くの音楽家や美術家、演劇人が大きな役割を果たしてきました。
 阪神淡路大震災では「歌舞音曲どころではない」と慰問を断る避難所もあったようですが、東日本大震災ではそのような情景はほとんどありませんでした。芸術の果たす役割が、少しずつ認知されてきたのだと思います。私たちアーティストの側も、災害時に、避難所などで、どんな貢献ができるかという知見を深めてきました。
 今回はパンデミックという、特にパフォーミングアーツ系に影響の大きい、想定していなかった事態が到来しました。事態が収束したら、今回の件に関して、また深い議論が必要となるでしょう。

 実は演劇界では、ここ数年、出演者のインフルエンザの発症と、それに伴う公演中止が相次ぎ、制作者間では問題となっていました。物理的に上演ができない場合は仕方ないのですが、感染予防にどこまで責任を負わなければならないのか議論になっていたのです。
 舞台芸術に関わる者として、今回の事態を深く心にとめ、また学術の世界などとも連携をして、今後の方策を練っていく必要があるかと思います。

4.パンデミックを抑えるための寛容な社会へ

ストレスが免疫力を低下させるというのは、医学界でも定説になっているかと思います。
 現状、新型コロナウイルスという見えない敵を前に、日本社会は相当ストレスフルな社会になっています。マスクを巡って暴力沙汰が起きたり、トイレットペーパーが買い占められたり、自然災害の避難所では起きないような混乱が多く見られます。人間は、見えない敵に弱い。
 ストレスを軽減させる方法は、人それぞれですが、一定数の人にとって、スポーツも含めた広義の文化活動がそれにあたることは論を待たないでしょう。

特に今回は、外に出ること、人との接触を抑える方向の抑制がかかっている点が、これまでの自然災害とは異なるところです。ここはとても難しい点だと思います。
 人間は社会的な生き物なので、家に閉じこもっていればストレスがたまります。インターネットでのコミュニケーションも有益ですが、ネットだけを見ていると、確証バイアスが強くなりデマに騙されやすくもなる。しかし、むやみな直接交流もできない。
私たちは、この新しい状況で、どのようにストレスを軽減していくかを新しい知恵を出して考えていかなければなりません。

 ただ一つだけ言えるのは、何によってストレスが軽減されるかは、一人一人大きく異なるという点です。

 音楽に触れないと生きていけない人もいます。
 絵画で心が落ち着く人もいます。
 映画や演劇から勇気をもらう人もいます。
 スポーツや身体を動かすことが大事だという人もいるでしょう。
 家で読書だけしていれば大丈夫という人もいるかもしれません。
そんなものは何も必要ないという人さえいるでしょう。

 みんな命は大事です。
しかし、その命の質は一人一人に少しずつ差異があります。

 先ほど、テレビを見ていたら、イタリアでの街頭インタビューで「ハグやキスは自分たちにとって大事なコミュニケーションだから、法律で禁止されても感染するまではやめない」と答えている方がいました。もし日本で、そんな放送が流れたらネットで相当たたかれるでしょうが。
 しかし、それが「文化」です。
人にはそれぞれ、命と同等に、少なくとも命の次に大事なものがあります。

いま大事なことは、この異なる価値観や文化的な背景を持った人を理解することだと思います。同意する必要はないが「そういう人もいる」と理解を試みる。

 たとえば子育て中のお母さんは、できるだけ感染リスクを下げたいと思い外出を控えるでしょう。
 万全の措置が講じられているならコンサートには行きたいと考える人もいるでしょう。そして、その方が確実にその方のストレスは下がる。

そのとき、「私は行けない(行かない)けど楽しんできて」「わかった、帰りに何かお土産買ってくる、何がいい?」という関係を、他者に対しても作っていけるかが問われているのだと思います。

 パンデミックにおいてもっとも怖いのは、生命の危機と同時に、社会全体が疑心暗鬼となりパニックが発生することです。
感染症の歴史は差別の歴史でもあります。

 芸術は、異なる価値観を理解するのには強い力を発揮します。
その意味でも、いまこそ芸術の力が必要とされているのだと私は信じます。

まだ、書かなければならないことがあるのですが、また次の機会に。